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ターボロ (ノースカロライナ州) : ミニ英和和英辞書
ターボロ (ノースカロライナ州)[す, しゅう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [す, しゅう]
 (n) sandbank

ターボロ (ノースカロライナ州) : ウィキペディア日本語版
ターボロ (ノースカロライナ州)[す, しゅう]

ターボロ()は、アメリカ合衆国ノースカロライナ州中部東寄りのエッジコム郡の都市であり、同郡の郡庁所在地でもある。2010年国勢調査での人口は13,121 人だった。ロッキーマウント大都市圏に属している。ノースカロライナ州のインナーバンクス地域に位置し、19世紀初期に遡ることができる多くの歴史的教会がある。
ターボロの町は1760年にイギリス人開拓者によって認証された。ター川の屈曲部にあり、ピードモント台地滝線にあるので、ター川の航行可能な上限の重要な川港だった。1730年代には既にこの天然の資源を活かしてヨーロッパ系アメリカ人の小さな町が出来ており、倉庫、税関やその他商業施設に加え、「質素で安価な」多くの家屋が建てられ、成長する村となった。
地元民は戦闘的な集団であり、初期の総督やその代理人には困難な時代があった。エッジコム郡住民はアメリカ独立戦争で独立を指向する強硬派となり、多くの者が大陸軍の士官として従軍した。中でもトマス・ブラウント(1759年-1812年)は、瀟洒なプランテーション家屋である「ザ・グローブ」の所有者となり、この家は改修されて現在一般公開されている。独立戦争のときは大変若い士官として捕虜になり、イングランドに送られて拘束されていた。ノースカロライナに戻った後、18世紀のアメリカでは最大級の商業・輸送会社に参加した。
「ザ・グローブ」は後にルイス・ディッケン・ウィルソン(1789年-1847年)の持ち物となり、ウィルソンはノースカロライナ州上院議員となり、米墨戦争に従軍した。その後の所有者ジョン・ルーサー・ブリッジャーズ(1821年-1884年)は南北戦争でメイコン砦の指揮官だった。
南北戦争で南軍の将軍となったウィリアム・ドーシー・ペンダーは、ターボロ市内のカルバリー教会墓地に埋葬されている。ペンダーはリー軍でも最大級に将来を嘱望される若い将軍だったが、1863年7月2日のゲティスバーグの戦いで致命傷を負った。1875年に創設されたペンダー郡にその名が残されている。その書簡集は『将軍から淑女に: ウィリアム・ドーシー・ペンダーからファニー・ペンダーに宛てた南北戦争時の手紙』と題されて、死後の1965年に出版された。
== 歴史 ==
ターボロの町は1760年に創設され、ノースカロライナでは9番目に古い法人化町となった。ピードモント台地のター川滝線に位置し、植民地時代は地域の重要な川港として機能していた。南北戦争まで繁栄する貿易の中心地だった。
学者は、ターボロ周辺の地域には1733年までに入植されていたと考えているが、当時のエドワード・モースリーの地図では、イロコイ語を話すタスカローラ族インディアンのみを示している。1850年までにトーボロとして広く知られており、それはタスカローラ語で「健康の川」を意味する「トー」に由来していた。
1770年から1775年の地図では「ターバーグ」と呼ばれており、1760年11月30日、植民地議会によってターボロとして町に認証が与えられた。同年9月、ジョセフとエスターのハウェル夫妻がその資産の中の土地150エーカー (610,000 m2) を、ジェイムズ・モーア牧師、ローレンス・トゥール(商人)、アキラ・サッグ大尉とエリシャ・バトル大尉、ベンジャミン・ハートに、5シリングとコショウの実1つとの交換で譲渡した。これらの人物は市政委員であり、町の区画を1区画0.5エーカー (2,000 m2) 以下、通りの幅を80フィート (24 m) 以下として区割りを決め、公的用途のために12区画と50エーカー (200,000 m2) の「公用地」を取っておいた。1区画は2ポンドで販売され、利益はハウェル夫妻に渡された。しかし販売された全109区画について利益が受け取られてはおらず、また幾つかの区画は40シリング(2ポンド)では売られなかった。
1758年から1759年、ハリファックス郡がエッジコム郡から分離した後、当初の郡庁所在地であるエンフィールドはハリファクス郡内にあった。
1764年、ターボロは正式にエッジコム郡の郡庁所在地となった。郡政府はその後の4年間、レッドマンズフィールドで会合を開いていた。ノースカロライナ州議会は1787年に一度、また1987年にもここで開催された。初代大統領ジョージ・ワシントンは1791年の南部巡回のときに、ターボロで宿泊したことが知られている。この町について、「1門の大砲で祝砲が撃たれるほど良い」と言ったと伝えられている。
ジェレマイア・バトル博士の著書『エッジコム郡: ノースカロライナの12郡、1810年-1811年』に拠ると、当時の町は次のように記されていた。

南北戦争に向かう時代に奴隷労働によって綿花プランテーションが発達したために、1870年代までにハリファックス郡とエッジコム郡は、人口構成で黒人が多数となったノースカロライナ州北東部の数郡の中に入っていた。1899年に新しい州憲法が民主党によって成立されたことで黒人が参政権を失くすまでの間の19世紀最後の四半期に、ノースカロライナ州第2選挙区から4人の黒人アメリカ合衆国下院議員を送り出した。地方の役人にも多くの黒人が就いた。アメリカ合衆国下院議員のジョージ・ヘンリー・ホワイトは、弁護士として成功し、ターボロに住んだ。黒人の参政権を奪った州憲法が成立した後で州を離れた。ここでは黒人が人になることができないと言っていた。ホワイトは、ワシントンD.C.ペンシルベニア州フィラデルフィアで銀行家として成功した。
1965年の連邦政府に拠る投票権法が成立し、アフリカ系アメリカ人が投票する憲法に保障される権利を監督し、執行するようになった。それ以後は黒人もノースカロライナ州で再度政治の世界に参加できるようになっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ターボロ (ノースカロライナ州)」の詳細全文を読む




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